はじめに
こんにちは。
『鬱エロゲーの車窓から』の管理人(?)である、『いのぶら』と申します。
本ブログは鬱・リョナ系のエロゲ―を中心にして、その感想と考察を投稿していくためのものです。私のメモ帳という表現の方がより正確ですね。しかし、それをどなたかと共有できるに越したことはないと思っているので、その2点にこのブログの意義があります。
暴力・胸糞・卑猥な表現を用いることもあるので、ご注意ください。
18歳未満の方はブラウザバックにご協力ください。
また、ネタバレ成分を過分に含みます。
そのため、既プレイの方のみ閲覧することを推奨します。
更新頻度はあまり高くないと思いますが、ちまちまライティングしていきます。
@Inno_Bla
こちらはツイッターのアカウントでございます。ブログ更新の際には毎度利用します。
自己満足の色が強い本ブログですが、よろしくお願いします。
『青い空のカミュ』 考察
前置き
こんばんは、いのぶらです。
前回は青い空のカミュの感想を述べましたので、今回は考察編でございます。例によってネタバレは全開で進行しますので、未プレイの方は閲覧をお控えください。
今回の考察は前回の感想で絶賛したエンディングが中心になります。
innocent-black.hatenablog.com初見だとどのような意味を含んであのような結末になったのかが、大多数のプレイヤーにとっては分かりにくかったと思います。私もすんなりとした理解はできませんでした。この点を理解すると、さらに面白いゲームであることが分かります。
1.導入
本作のテーマはずばり、「想い」であると言えるでしょう。
ざっくりとした話の流れを概説しましょう。蛍と燐はショッピング帰りに電車でうたたねをして、昼が訪れることのない夜の世界へと迷い込んでしまいます。もともと大の仲良しだった2人はその中で互いに協力しあいながら、現実へ戻ろうと奮闘します。そして、努力の甲斐もあって、夜の世界を打ち壊して自分たちが元いた現実世界への帰還を果たしますが、結果的に帰ることが出来たのは蛍だけで、燐は夢の空間である青いドアの家(正確には青と白の世界)へ取り残されてしまいました。このような流れの中で2人の間だけではなく、燐の従妹の聡や村人など、人々の想いを強調する描写が幾度となくされていました。
蛍は物心がついた時には既に両親は傍におらず、こうした生い立ちもあって大切な何かが欠けている状態で成長しましたが、その中で出会った存在が燐でした。
燐は気配り上手で周到、しっかりとした女の子で蛍の憧れです。家庭や、従兄である聡との関係が上手くいかず、傷ついてしまってもなお自分を顧みない燐を守りたいと思っています。現実世界へ帰ることにさしたる望みは持たないものの、自分の全てである彼女がそこに存在して戻りたがるのならば、そこに私も戻りたいという立場をとっています。
まじりっけがなく、透明感のある存在として描かれていたのが蛍でした。
燐は幼いころから両親が存命でしたが、そんな彼女は成長の過程で様々な出来事に遭遇しました。蛍と比較すれば、よりどころとなる家族や従兄が身近にあって恵まれている境遇でしょう。しかし、必ずしもその幸せが続くとは限りません。一家離散、従兄の聡にも拒絶される苦い経験は彼女の心に影を落とすには十分でした。それらが原因となって、燐の心は深く傷ついてしまいます。
そんな中で燐は蛍に出会いました。今まで何も持っていなかったからこそ傷一つなかった蛍は、燐にとって眩しく憧れの存在として映ったと思います。そしていつしか、彼女が綺麗なままでいてくれるのならば、自分は引っかき傷だらけでも構わず、彼女を守りたいと決心するようになりました。夜の世界から現実世界へ帰りたいと思う原動力は、そこに蛍と一緒にいられる空間があるためでしたが、誰もいないマンションに戻ることに虚しさを覚えているようでもありました。
純粋な蛍とは対照的に描かれていたのが燐でした。
2.完璧な世界
さて、何度か作中で言及されていた完璧な世界の「完璧」とは一体何を差すのでしょうか。私はこの完璧を人の「想い」として解釈しました。その根拠を述べるためには宮沢賢治の『よだかの星』、青と白の世界、燐の紙飛行機、星について考える必要があります。
本作では宮沢賢治などの文学の引用が目立ちますが、その中で注目したのは『よだかの星』で、「よだかが星になることに意味は必要でなく、そこに思いがあるから美しい」と説かれています。この部分が本作のテーマを理解する上で最も重要なポイントでしょう。
プラットフォームから見える地平線の向こうにあった、青空と風車だけがある「青と白の世界」は、蛍は感知できずに燐だけが地平線の先に見ることの出来た光景でした。オオモト様はその理由として、燐に選び取った真実があったからと言いました。つまり、この空間は彼女にとって重要であることが示唆されています。
蛍が夜の世界を切り替えると、1つの体に戻ることのできない聡(サトくん、ヒヒ)は自らの消滅を選ぶことで、純粋な想いを持った星になって天へ昇っていきました。これは明らかに『よだかの星』と重なる部分がありますね。
風車が回ることに意味はありませんが、回ろうする想い自体を美しいと感じるのです。燐の想いを乗せた紙飛行機は、何もかもから解放されるように空を飛び続けます。物理法則ではそれはあり得ないことですが、これは永遠にまわり続ける風車と、地面に落ちない紙飛行機は等号の関係であると示しています。『よだかの星』のエッセンスと合わせて見ると、星、風車、紙飛行機はそこに想いがあるからこそ美しいということが分かりますね。
1の導入で叙述した彼女のエピソードを鑑みて、燐の想いは果たして何であったのかを考えると、それは蛍と特別な存在であり続けること、彼女の心を傷つけず綺麗なままで守り続けることだったと思います。
社会の最小単位は家族であると思いますが、燐はその環境下ですら傷をつけられました。家族との温かな思い出、完璧な瞬間は徐々にすり減っていました。夜の世界を脱しても、彼女は誰もいないマンションに帰ることになるため、現実世界へと帰りたいという思いは強くありませんでした。全てが満ち足りていた完璧な瞬間であるワタスゲの思い出も、聡の死に伴い摩滅。そのせいで元々希薄だった願望も砕かれ、傷つく恐れのある現実世界を拒絶します。
現実的な話をしますが、我々は人間社会の中で生きている以上、傷つけ合うことは必定です。何故なら我々は社会的動物であり、また個でもあるのですから、物事の考え方や受け止め方は人によって違います。ちょっとした認識の差ですら、容易く傷つけられてしまうことは誰しもが持つ経験のはずです。そうだとしても、そうした経験を糧にして我々は生きていかなければならないのです。しかし、燐はそんな傷だらけの自分に耐えられなくなりました。
燐は蛍のことを「この世のものとは思えないほどに傷一つなくて、キラキラしている子」と思っていました。それは何に起因するかというと、蛍は家族や恋人などの大切なものを持たなかった故に、燐と違って傷つくことがなく純粋であったからでしょう。友達という言葉では言い表せないほど仲のいい2人ですが、生きている以上、事件は起きます。燐が幸せと感じていた父母との完璧な瞬間が失われたように、蛍と燐の関係も様々な要因で断絶する可能性があり、絶対的なものではありません。
燐が現実世界に戻らずに、青と白の世界へ残ることを選んだクライマックスは、よだかと同様に彼女自身が星になったことを意味しています。直截に言えば、死んだと表現出来るかもしれません。
燐の想いは、蛍と特別な存在であり続けること、彼女の心を傷つけず綺麗なままで守り続けることでした。今まで何も持っていなかった蛍には、燐という大切な存在が出来ました。それはかけがえのないものですが、お互いを傷つけてしまう危うさを内包していることを燐はその経験から知っていました。そのため、自らが星になり純粋な想いに昇華させたのだと思います。青と白の世界が燐が選び取った真実とはその想いを指します。
しかし、燐は心が弱いです。なので、蛍を傷つけたくないと思うのと同じくらい、燐も蛍との幸せな時間を失いたくなかったから現実を拒否したのもあると思います。
蛍が、青と白の世界を完璧と表現したのは燐のその想いの美しさに気付いたからです。ラストシーンで線路から燐が消えても驚きを見せませんでしたが、直前での対話をする以前から燐の煮え切らない態度を見て、何となく察していたのではないのでしょうか。お互い心の機微には敏感だったようですし、心を通わせた2人ならば、そうおかしな話ではないです。
実を言うと、森の中でDJゴドーのラジオを聞いた蛍と燐の反応から、完璧が「想い」を指すのか、はたまた「幸せ」を指すのかは迷ってはいましたが、厳密には想いが先にあってこその幸せなので、今回は完璧な世界を人の「想い」であるとして、そこに付随するものが「幸せ」としました。セットの解釈でも問題ないと思います。
燐と聡にとって、ワタスゲを見た時が一番満ち足りている完璧な瞬間で、それ以降は微妙に欠けたパズルのように気持ちが重ならずにすれ違ったと描写されました。ラストシーンでの蛍と燐の対話では、蛍に「あなた以上に大切な人なんていないよ」と告白された燐が同調すると、「2人の想いは同じ方向を向いていて、それだけで世界のパーツのすべてが、正しいところにぴったりとおさまった」と描写されました。すなわち、2人が同じ「想い」を通わせることで、危うい現実を超越して「幸せ」を十全に昇華させた瞬間でした。それはあたかも美しく輝き続けるよだかの星のように。
蛍が初めて手に入れたかけがえのない宝物、燐との思い出と想いだけは決してくすむことも、傷つくこともありません。蛍が今後生きていく上で、それは彼女を支える核として存在し続けることでしょう。燐が星になった意義はそこにあったのです。
3.量子力学的可能性
蛍と燐がハーベスターに襲われて疲弊していたところ、青いドアの家に飛んでオオモト様に膝枕されたシーン。その際に電車は来ないのかと2人は尋ねました。彼女はそれに来ると答えて、加えて燐は既に切符(資格)を持っているという事を明らかにしました。蛍にはそれがないのにも関わらず、終盤に電車が来た際に乗車することが出来たのはおかしな話だと思いましたが、この電車には行き先が表示されていなかったことから、切符(資格)を持つということはそれに乗るためのものではなく、人生における目的地(目標)の有無を表しているのではないでしょうか。
燐の目的地は「2.完全な世界とは」で、蛍と特別な存在であり続けること、彼女の心を傷つけず綺麗なままで守り続けることと考察しましたが、蛍の場合はそれがはっきりと描写されていません。プラットフォームから見える地平線の向こうに、彼女は何も見ていませんから。
だからこそ、それが蛍の未来を象徴しているように思えてなりません。
「青と白の世界」の白は紙飛行機の色から、燐の想いであると読み取れます。言わずもがな、青は青空ですが、それは蛍の未来の象徴なのでしょう。夜の世界では昼が訪れず、常世の闇が広がっていましたが、蛍は世界を切り替えることで現実世界へ帰還しました。夜が明けることは物事が始まる比喩だと思いますが、このことから青と彼女の未来を掛けているのだと思いました。
電車に行き先が描かれておらず不確定だったのも、ラストシーンで線路の上を蛍が自分の足で歩いていくのも、人としての一生を表すのに相応しい描写です。彼女は一体何処へ行くのでしょうね。
燐曰く、量子力学の考えでは肉体が消失しても、想いなどの意識の情報が残れば幽霊のような形となって残ります。ヒヒも似たようなことを言っていますね。そして、エンディング後のエピローグでは蛍の元に、燐が飛ばしたと思われる紙飛行機が飛んできて、蛍はそれを拾い上げます。
事象の地平線によると、「光速を超えると物事を理解できない領域まで到達する。でもそこまでいかないと純粋な存在になんかなれない。風車みたいに」と言及されています。物理的に考えれば人間が光速で移動することは不可能なので、これは何かの比喩であることが読み取れます。これは量子力学で言う「幽霊=純粋な想い」が妥当でしょうか。
風車は回り続けようとすること自体が美しいとされていました。風車と立場を同じくしていたものの1つが、燐の紙飛行機です。蛍は「燐の幽霊=純粋な想い」を肉眼で捉えることが出来ないので、エピローグではそれを物質である紙飛行機として表現したと考えました。言わば、燐から蛍へのエールです。
いつか見える蛍の目的地まで、彼女が独りぼっちの人生を歩むわけではないという意味がエピローグに込められていると感じました。燐との永久不変の絆の証左とでもいいましょうか、燐は蛍の中で生き続けるのです。
まとめ
以上で『青い空のカミュ』の考察は終わりになります。
私は本作の「空は青く果てしなく、透き通るように無意味だった」というキャッチコピーが、Leafの『天使のいない12月』の「願ったのは、束の間の安らぎ。叶ったのは、永遠という贖罪」並みに好きなのですが、考察をした後だと深く感じます。
作中で燐は蛍を「色があって透き通っている」と言っていたので、考察とキャッチコピーと合わせて「青空=蛍」なのかなと思ってました。が、ラストで蛍が「透き通った燐の声。燐の声色は青空みたい」とはっきり描写されたので、「青空=燐」ということになるんでしょうか。一体どちらが青空なんだ。
いや、「空は青く果てしなく、透き通るように無意味」ということは「目に見えないもの=燐の想い」がそこにあります。事象の地平線では、意味がなくなることが純粋な想いですから。果てしない青空は蛍の茫漠とした未来で、そこには燐の想いも一緒に居続けることから、2人の幸せの継続を意味するのではないか。つまり「完璧な世界」ですね。本当にそうか?ww
今回の考察だけでは正直物足りない気がします。正直分かっていないところもいくつかあるため。しかし、それだけ考察しがいのある作品だと思うので、他の皆さんも頑張って考えているんだろうな~。気が向いたら人の考察にも目を通しますし、追加考察も行います。でも、この記事を書くだけで15時間くらいかかっててめんど草。やっぱやらねえわ。
それでは、お疲れさまでした。
『青い空のカミュ』 感想
前置き
こんばんは、いのぶらです。
連日の更新になります。
実を言うと、本作は『雨音スイッチ』より先にクリアしていたのですが、そちらをプレイしたい欲求があって後回しにしていました。ゲーム自体の完成度はこちらの方が数段上といった印象がありましたね。きちんと考察もできる内容で、原画とシナリオを同一の方が担当されているとは思えないレベルです。有能すぎるわ。ゲームというより、作品と表現した方が適切と言っていい。まぁエロゲーなのですが。
ゲームをプレイしての感想
本作はとにかくCG、背景、文章、音楽、演出などのありとあらゆる手段を用いて、唯一無二とも言えるほどのムードと世界観を創造しています。ここまで懐郷的でエモーショナルな雰囲気を持つ作品は、私が今までプレイしたゲームの中だと『ヒトカタノオウ』以外にはありませんでした。いや、それを優に超えているかもしれない。他には『少女神域∽少女天獄』もよく作り込まれている設定でしたが、そちらはあまりに文章での描写がしつこく間延びしたものでした。本作にはそれがあまり感じられない。
このような牧歌的な景観は、高校~大学で電車通学をしていた身からするととても懐かしいですね。田舎に住んだことのない人でも、これらのCGを見て懐かしさを覚えるのではないでしょうか。電車内の音や川のせせらぎなども、その感覚を呼び起こすのに十分な効果を発揮していました。
文学、特に宮沢賢治を意識していたのかオノマトペの使い方も上手で、小難しい語彙に頼らない表現は万人受けもしやすいと思います。もっとも私は文学には疎く、全くの蒙昧なのですが。蛍と燐もよく理解しているようだし、教養として何冊か読んでおかないと恥ずかしい気がしてきた。
そしてなにより、本作のテーマでもある空の表現はため息が漏れるほど美しいですね。原画家はキャラクターよりもこういった風景を描出するのが非常に上手です。このあたりの力の入れようは明らかですね、とても素晴らしいと思います。加えて、恋愛要素が希薄で女の子同士の友情を表現しているため、ギャルゲー・エロゲーといった概念を当てはめるのに躊躇すらします。いや、エロゲーですけど。
こうした美しいCGを見るためだけにこのゲームを買っても、損にはならないです。
私はInnocent Greyから発売されているエロゲーである《虚ノ少女》のCGが最も美しいと思っていたのですが、少なくとも上述の風景・背景に関してはこちらの方が上に感じます。加えて雰囲気作りも上手すぎる、これは大きなセールスポイントだと思います。そもそも両作品の系統が違うので、力を入れている部分も異なるのでしょうが。どちらにせよ、業界トップクラスであることに変わりはありません。
メインのキャラクターは親友同士である燐と蛍でした。好みかどうかと聞かれれば、正直2人ともストライクとは言えないですが、可憐ではありました。幼さを感じさせる可愛らしい見た目は、重いテーマと救われない結末を上手く引き立てていますね。最初はミスマッチな気がしましたが、擦れていない純粋な想いを象徴的に表現したという意味ではこの幼さが作品に合っていますし、ゲームをプレイし終わるとこれで良かったと思わせてくれました。
というか原画家の他の作品を覗き見る限りでは、あえてこうしたキャラクターデザインにしているように思えるのですが、そこまで行くと私の考えすぎでしょうか。よく出来た作品だからこそ、あえてそうしている気がしてなりません。
互いが親友を守るために消火器や鉄パイプで敵を打擲するシーンは、その迫真さと可愛らしい見た目が手伝って、シリアスな場面なんでしょうが心の底から笑ってしまいました。
燐が無免許運転の車で人を撥ねまくるところも面白かったです。蛍が「乗り捨てて歩くしかない」と言っていましたが、もっと他に言い方があるだろうと突っ込んでいました。ヤ〇ザか何かかよ。「置いていく」の方が彼女のキャラクターに合った表現だと思ったので、なおさら笑えました。
個人的にはこれらのシーンは作中でも屈指のコミカルさ。私は燐の方が思い切りが良くて好きでしたね。
因みに、車にある程度詳しい方ならお気づきだと思いますが、彼女たちが乗っていた車はスズキのラパンです。とてもキュートなエクステリアで、2人にはぴったりの車でした。メルセデス・ベンツのSクラスや、トヨタのセンチュリーのようなもっと厳つい車だったらなおさら面白かったのですが、そこまでしてしまうと路線が変わって任侠モノになりそうなので、この車で正解ですね。
トゥルーエンドの締めは見事と表現するほかありません、最高です。私がここ数ヵ月の間にプレイしたゲームの中では、間違いなく最高峰と言えます。燐が消失して蛍が悲しみに暮れるエンディング。しかしそれは作品を咀嚼すればするほど、単純なバッドエンドではない、非常に練りに練られた構成であることが分かるでしょう。純粋に蛍が一人ぼっちになってしまう後味の悪い結末として見てもかなり好みです。詳しいことは考察編で解説しますが、本当に素晴らしい結末でした。
原画・シナリオ担当の〆鯖コハダ…恐ろしい子。美味い、美味すぎるぞ。〆鯖コハダだけに。怒涛のラストシーンのおかげで、序中盤のだるさが一気に吹き飛びました。再三になりますが、この〆は本当に良かったです。〆鯖コハダだけに。バッドエンドもテーマによく合っていて好みでした。
まとめ
序盤から中盤にかけての展開がやや冗長に感じられて、キャラクターにもそれほど魅力を感じられなかったのが不満点になります。しかし、それら短所を補って余りあるほどの結末と、全体的な雰囲気は非常によろしく完成度は高いです。トゥルーエンド、バッドエンドともに心地よい余韻が残りました。人に自信を持って勧められる作品。
自己採点 100点満点中、80点。
『雨音スイッチ ~やまない雨と病んだ彼女そして俺~』 感想・考察
こんばんは、いのぶらです。あけましておめでとうございます。
ドマイナーもいいところの鬱・ヤンデレ(メンヘラ)ゲーをプレイしました。
あまり考察が出来るような作品ではなかったので、感想と考察をまとめて書きます。
まず感想ですが、序盤の展開やキャラクターなどの魅力は十分。ろくでもないゲームということは作品名を見れば明らかですし、彼らがどのような地獄絵図に巻き込まれていくのかという期待がありました。
主人公の慎二がもっとまともだったのならば、ヒロインである雨音は救われていたのかもしれませんが、高校生という事を考えれば歳相応のキャラクター。というか、この手のヤンデレ・メンヘラをヒロインに据えるからには、相手にはそういった役回りを求められるのが当然ですから。
慎二君、よくやってくれました。好きでも嫌いでもないけれど。
メインヒロインの雨音はかなり好みでした、全キャラクターの中で一番良かった。何より庇護欲を煽るような不幸さが良かったですね。慎二に体を求められると生きる気力が湧いてくる単純なところもまた可愛いです。
本作はヤンデレゲーだと思っていたのですが、それよりはメンヘラゲーに近いものがある。調べてみたら、公式はメンヘラゲーとして扱っているようでした。自傷行為に走ったり、情緒不安定でやたら気弱だったり、反社会的な行為による周りへの影響が比較的少ないところがメンヘラっぽい。しかし、特定の相手にのみデレるという属性はヤンデレ寄りでしょう。自分と敵対する陽子などには、もっと後先を考えない暴挙に出てもいいと思いましたが、心の病を抱えてプレイヤーの同情を誘う彼女のキャラクターにはあまり合わないのかもしれませんね。ヒロインの資質は十分です。
雨音がとった行動の中で最もインパクトがあったのは、なんといっても慎二の母の葬儀中にウェディングドレスで凸るシーン。ライターはどんな生き方をして、これを思いついたのかが不思議でならない。大爆笑でした。
このシーンのいくらか前に、陽子から「慎二は暗い女が嫌いで、明るい女が好き」ということを知らされていたから、本人に「私は暗い女じゃないの」とアピールしたかったのかもしれませんね。または、「こんな時だからこそ、明るく彼を励まさなくちゃいけない」と思ったのかも。
…いや、無理があるわ。そうだったとしても、慎二の気持ちを察するだけの理性は残っていてもよさそうだし。きちんと作中で雨音の心理を掘り下げて欲しかったです。このシーンに限った話ではないのですが、キャラクターの言動の裏付けがもっと欲しい。
雨音が心の病を治療している十数年間に、慎二が陽子と結婚して子供まで作ったルートは良かったです。好きな男のために自分の大切な時間を捧げる純真さに、全く見合わない対価を与えられた悲劇の結末ですね。結局病気は治らなかったし、かわいそう。だがそれがいい。
2人の子供を見て脳が破壊されて、頭を抱えながら叫声をあげるCGはかなり萌えます。
ホルマリン漬けのカエルを押し付けられてえずくシーンもよかったですが、もっと本気の吐く演技をして欲しかったですね。『euphoria』の梨香のように。
いやぁ、でもこの顔を見ていると陽子が雨音をいじめたくなる気持ちも分かるかも…。
陽子もいいキャラクターをしていました。その名の通り、雨音との対比関係として描かれていました。雨音に慎二と別れることを強要する、彼女でも何でもないのに雨音に嫉妬して慎二との会話を一方的に打ち切るなど、自分勝手で幼稚な面があります。しかし、それが彼女の魅力でもありますね。年下属性持ちとしては、なかなか愛嬌のある子のように思えました。プレイヤーにはあまり好かれる立ち位置にはいないような気がしますが、私は好きでした。
自己中心的な言動が目立つ陽子ですが、実は雨音も彼女に似ているところがあります。リストカットや服毒による自殺を試みて慎二に迷惑をかけていますから。手のかかるという意味では2人に共通項がありましたね。だからこそ、水と油で仲良くなることはなかったのかも。
不満があるとするなら、雨音と対比させるのであればもっとそういった描写を増やすべきだったと考えます。どうしても話の薄っぺらさが目立ってしまいますから。
物語後半はライターの力量不足か、それとも締め切りに間に合わなかったのか、予算が足りなかったのかと思わせるような内容。伏線というか、気になっている部分が明らかにならないし、ところどころでぶっ飛びすぎたシーンが多すぎて感情移入しづらかったり、粗が目立ちました。個人的には葬儀シーンのあたりから崩れていきました。
具体的にはこれら。
場面の切り替えが目まぐるしい→最初は訳がわからなくなる
展開が唐突すぎて置いてけぼり→母の事故死など突然すぎてドラマより笑いが先に来る
アニメーション→そこで使う必要あるかと思う部分あり
雨音が転校してきた理由→素行不良で前学校に居られなくなったのか
雨音の部屋にある人形たち→出す意味が分からない
泉の言動→聡明な生徒会長にしては怒りの矛先を明らかに間違えている
雫の言動→姉の命令とは言え、雨音への当たりが内気とは思えない
雪華の言動→慎二と結ばれたのに、雨音を殺して犯罪者になったら慎二に迷惑かかる
ルート分岐→慎二の別ヒロインへの乗り換えがあっさり サブルートはほぼおまけ
正直探せばもっとあると思いますが、キリがないので。
雨音が雨に打たれたがる理由は、「母が聞かせてくれた話、雨が自分に幸福を呼んでくれることを信じたかったから」でしたが、彼女のよく分からない奇行が目立つ中、この点に関しては納得するためのきちんとした材料が用意されていたのがよかったです。
そのような雨音の健気で薄幸のキャラクター、アニメーションでの雨の表現、作中の梅雨の雰囲気、陰鬱な展開のかみ合わせは良くて好きでしたね~。雨のSEにもう少し趣向を凝らして、BGMがしとしととしたようなものであったのならば、もっと良かった。梅雨の季節が舞台になっている作品はあまり見たことがないし、雨が好きな私にとっては結構刺さりました。救いが全くないのもいい。
そこに話の深みが追い付いていなくて考察は出来ませんが、単純な読み物としては面白かった。コメディ色も強く、王道的な笑いではありませんが、キャラクターの常軌を逸した言動で笑えるタイプ。荒唐無稽というと暴言かな、そんなことないよね?ww
なので、テーマが何なのかは全く分からないです。正直思わせぶりな描写があるだけで、何を表現したかったのかがよく分かりませんし、中身が伴っていないので何かに絞ることが出来ません。強いて言うのならば、トゥルーエンドの雨音が言っていたように「幸せとは何か」なんでしょうが、それをきちんと説明できるだけのものを用意されていたとは感じられず、少なくとも私にはそれを読み取ることが出来ませんでした。
この点はお手上げです(΄◉◞౪◟◉`)
最後になりますが、本作をプレイしていて感じたことは、2ch発のギャルゲーである『止マナイ雨ニ病ミナガラ』にどころどころの要素が似ているなということです。どちらも舞台は梅雨で、精神を病んだヒロインが登場しますから。
あちらの方が話の構成は上手だった記憶がありますし、それほど突飛でもありません。ピンボケした風景や、いい意味で臨場感のないBGMがいい味を出していました。なんというか、アングラな感じがヤンデレを扱うゲームによくマッチしていた気がしますが、物語がハッピーエンドで締められる性質上、ヒロインはヤンデレを卒業してしまうのが難点でありました。
その代わりに『雨音スイッチ ~やまない雨と病んだ彼女そして俺~』は、一般的なハッピーエンドで締められるルートは1つとして存在せず、雨音は徹頭徹尾病みっぱなしで、ヤンデレヒロインとしての務めを立派に果たしてくれました。正確にはヤンデレというよりメンヘラに近い性質を持っていましたが。これはこれでいじらしくて可愛げがありますね。未踏の地へ足を踏み入れました、もちろんいい意味で。
ヤンデレの病んでいる部分がなくなってしまったら、それはただの一途な女の子です。故にヤンデレがヤンデレであり続けるために、物語の帰結はハッピーエンドではあり得ず、本作のような結末が最もふさわしいと言えるでしょう。
感想・考察は以上です。
うーん、好きなゲームの1つになったことに違いはないけれど、もうちょっとシナリオを練ったら良いゲームになったと思うな。いいものをもっていただけに、そこだけが惜しいなと思います。
自己採点 100点満点中、79点。
『何処へ行くの、あの日』 考察
こんばんは~、いのぶらです。
とりとめのない感想は前回を確認してもらうとして、今回は『何処へ行くの、あの日』がどんなお話だったのかを考察して掘り下げていこうと思います。
本作のテーマは「今を精一杯生きること」だと思います。その肝だったのが、過去を変えて存在したかもしれない可能性と未来を探しあてるマージ(未来視)と、それを否定する虫食いにあったように思います。
マージで変えられるのは、当人たちが取るかもしれなかった行動のみ。例えば、理性的な人間がマージの夢の中で人を殺したところで、それはありえないことであると判定されて過去は変わりません。こういった制約もありながら、キャラクターたちは「あの時にもしこうしていたら」という罪と後悔に後押しされながら、マージを使用していきます。
千尋と絵麻はマージに否定的な姿勢ではありましたが、絵麻の場合は未来視によって恭介と結ばれる未来を探していたという点では、マージを使用しているのと大した差はないと考えました。
マージは過去を変えることで理想の未来を選び、未来視は数多ある世界をのぞき見することで理想の未来を選ぶものですから、ありのままの現実と向き合うことが重要であると説かれている本作にはどちらもふさわしくない行為でしょう。そのため、マージと絵麻の未来視は根本的なところでは似たようなものなので、同じような扱いで構わないと思います。虫食いを発生させているアレと千尋は、それぞれパラレルワールドとマージを否定していますから。
一方で、常に現実に立ち向かい続けたのは千尋で、一貫してマージを否定しています。マージを使用した描写はありましたが、それは楽しい思い出があったと確認するためのものであって、過去を変えるためではありませんでした。そもそも、パラレルワールドを削除していたアレと立場を同じくしていましたからね。容認することは難しいでしょう。
千尋は虫食いによって、現在の思い出を近いうちに全てを忘れてしまうことを自覚していましたが、全てを忘れるということは死と同義です。自らの生が有限でないことを自覚しているからこそ、一日一日を精一杯生きることにこだわっていました。作中でテーマを最も忠実に体現していたのは、間違いなく彼女です。
千尋ルートでの恭介が、自分の罪が実際にはなかったと知った時、自分の中にある核がなくなって空っぽになってしまった感覚を覚えました。忌まわしき過去であれど、自分という人格を構成するための血肉であることを理解しました。このことからも、マージを使わずに過去を受け入れることの重要性が示されており、千尋の主張の裏付けになっています。
しかし、千尋がクライマックスの真世界で智久を救済しているのは、「楽しいことも辛いこともありのままを受け入れる」という信念と齟齬が生じているような気がしますが。だからこそトゥルーエンドではアレに勘当されて、絵麻が最後に選び取った、もしくは受け入れた真世界にとどまって大団円となったわけなのですが。
この全員生存のトゥルーエンドは、本作では「人との繋がりこそが至上である」ことを主張したかったと解釈しました。
作中で何度か言及されている通り、恭介にとって一番良かった時代は性愛を抜きにした少年時代、つまり友人たちと純粋に繋がっていた夏休みにありました。本作に限らず、時間軸がループ・移動する話には、理想の未来を強く希求するという側面があります。ループものに限らず、どの作品でもそういった傾向にあると思いますが、本作でわざわざ時間を主題の1つとして扱ったのは、そういったキャラクターたちの想いをより感じられるためにでしょう。実際、プレイヤーが体験したのは絵麻の想いそのものの世界でしたから。
その帰結としてあのようなエンディングになったと考えるのであれば、自然であるような気がします。「思い出はしまっておく方が綺麗に見える」と何度か触れられていましたが、そうした思い出を過去ではなく、現在として再現することで丸く収まった結末だだと思います。絵麻を中心に世界が構築されている以上、多少無理矢理でも辻褄は合うかな。
そうした温かい繋がりから最も遠い存在が三木村でした。恭介とヒロインが何故過去を受けれられるようになったかというと、それは自分を支えてくれる存在がいるからでしょう。双葉の場合は偽りの過去、自分が一葉ではないと認めるためには恭介の存在が必要でしたし、桐李は妹の死を受け入れて、人に寄りかかってはいけないという考えを改めたのも恭介がそばにいてくれていたからです。
三木村は作中で報われることなくその役目を終えましたが、本来彼を支えてくれるはず存在は母親の雪絵です。しかし彼女は典型的な仕事人間であり、家庭を顧みることはありませんでした。桐李もそんな母親に対し寂しさを覚えていましたが、妹の夏美がいたし、彼女が事故死した後も引っ越し先で恭介たちと出会えたのが幸運だったのでしょう。
マージを使用しているキャラクターたちは、現在をよりよいものにしたいという想いがあって遡行を繰り返しますが、三木村は当てつけと屈折した愛情を夢の中で表現するばかりで、現在を良くしようとする気概はさらさらありません。「僕はこんなだから仕方ない」というセリフの通り、全てを諦めていますが、恭介も何度か同じようなセリフを言っているので、三木村に寄り添ってくれるような存在が母親以外にいたのなら、あるいは彼女が仕事より息子を優先していたのなら、ここまでこじれるようなことはなく、ハッピーエンドを迎えられたのかもしれません。
母親の生きがいを奪わない、いい息子であろうとしたがために素直に気持ちを伝えられなかったのは、まさに彼の理性の証明であり、悲劇でもあります。
このことも、前述の「人との繋がり」を重視したトゥルーエンドの裏付けになります。
マージ(未来視)が理想と願いの暗喩だとすると、それらと対立し消滅させる虫食いとは現実と理性の象徴であると思います。
虫食いを発生させているのはアレと千尋ですが、千尋は前述のとおり「今を精一杯生きること」のテーマを体現しています。本来、私たちが生きる現実の世界というのは1つだけであり、マージのような薬を使って過去を変えることは決して叶いませんし、ましてや未来視で世界を選ぶこともできません。そうした世界を許容しない虫食いはテーマをより強調させて、キャラクターたち、ひいては我々プレイヤーに疑問を投げかけます。
「お前は今をどう生きるつもりなのか」、と。
しかしながら、一葉・桐李ルートは、「自らが背負っている罪から逃げずにそれを受け入れて生きていく覚悟を決めるが、虫食いによって世界が消滅する」という結末でした。
桐李ルートでは二人の別れを美化したような描き方をしていたのでまだ救いは有りましたが、一葉ルートの描写の仕方は絶望しかありませんでしたね。ようやく過去を受け入れて前進することを決めたのに、消える運命にあった世界であったがためにそれを否定するような結末になったのは、まさに皮肉としか言いようがありません。
智加子ルートはなおさら酷かったですね。
「今を精一杯生きること」の重要性が全編を通して語られていますが、このルートに関してはそうしたテーマに対するアンチテーゼを感じました。
弟である智久の死を、智加子は恭介との繋がりによって払拭しましたが、その直後に恭介は死にます。これは彼女を長年苛んでいた、「私に花を贈るために弟が死んだ」という意識を蘇らせるには十分です。そして彼女は恭介の死を受け止めきれずに、マージを使用して覚めることのない眠りにつきました。
果たして、一体誰が彼女の行為が間違っていると指摘できるでしょうか?
この作品は「今を精一杯生きること」をテーマに掲げているのは確かだと思いますが、そうした生き方が出来ない人間に対しても寛容な態度を見せています。現状に満足して生きていければ、それに越したことはないかもしれません。しかし、人間の心に根を張った後悔はそう簡単に解消されるものではないのでしょう。そのため、智加子ルートに共感できる方もいると思います。というか、もしかしたらそっちの方が多いかもしませんね。
以上で『何処へ行くの、あの日』の考察を終了しようと思います。
本編の時系列と世界線も複雑に交錯していたので、考察好きにはもってこいの作品だったと思います。スクショ枚数も4500枚を超えて、とにかくまとめるのが大変でした。ところどころ、『あした出逢った少女』に似てるなと思いましたが、まぁライターが一緒なのでね。またこういった力の入った作品をプレイしたいものです。
おつかれさまです。バイバイです。(智加子風に